ライトな話

もう少しライトな日記を書こうと思った。

まずこの尻の写真を見てほしい。

これ、梁に縄をかけて、強制バックのスタイルで固定しています。

バックでしか犯せない。

蝋燭をやるのも良いし。

鞭も打ちやすい。

ケインの痛みからも逃れられない。

パドルも良いね。

乳搾りスタイルでP責しても良いね。

これP縛りして、上に引っ張るのも良いのではないかと。

良いと思うんだ。

秀逸だと思うんだよね。

なるべくライトにしようと思うと、特に書くことが思い付かない。

「面白い話」とかが非常に下手くそだ。

私が心底尊敬している文筆家は片桐はいりさんなのです。

それは、自分には出来ない文体だからなのですよね。

しかし、多少は面白い文章も操りたいものですね。

大量の猫と安心

休日、実家に行ってきた。

保護猫ボランティアをやっているので、沢山猫が居る。

面白い環境だ。

病気猫の部屋ってのがあってね、そこには少し前まで、物凄くでーーーっかくて物凄く優しいボスが居て、先の短い子を抱きかかえて寝る様な子だったんだけど、少し前にこの世を去ってしまった。

その後は初代ボスの次に身体の大きい二代目ボスが居たんだよね。

もう治療も出来ない一番弱っている子の隣に寄り添って舐めたり温めたりしていた。

寝床、食事、清潔(と、医療)

猫はこれが揃っていると、そのような社会構造になるらしい。

先日の福祉について考えていた事と繋がってね、人間も弱者への寄り添いをする最低の条件は、寝床、食事、清潔と医療なのかもしれない。

猫の場合、医療は必要なんだけど、猫からしたら辛いことをしてくる面があると思うので、清潔(医療)と表現しておく笑

勿論、人間と猫は哺乳類って位しか共通点が無いし、猫でも出来るから人間もとかって話では無いし、ましてやその事が正しいとか、善良という道徳的な事を言いたいわけではない。

ただ単に、現在は寄り添える世界の方がいいらしいという常識があるので、もし、それを実行するならば、集団全体に寝床、食事、清潔と医療が最低限は必要なのかもしれないね……と、思ったというだけの事だ。

そして更に、猫の集団でもそうならない集団もある。

人間大っきらい部屋の猫達は、ボスだとかなんだとか以前に、カチカチに固まって身を守りあっている。

同じ環境の下で熟と感じるのだが、寝床と食事と清潔は誰にでも与えられていても、安心するかどうか?というのはとても個人的な価値観の問題なのだ。

人間にとっても安心の条件は本当に様々だなと思う。

安心って、何でしょうね?

M男さんもさ、女王様に仕える条件のかなり上位の所に安心ってあると思うんだよ。

身を任せるわけだから。

拘束される時点で、生殺与奪の権利を投げ渡すに等しいわけだから、流石に殺さないだろうというレベルから総ては始まると思う。

そして、この人!!!ってなる為の安心感というのは、本当に多岐に渡るわけですよね。

殺されなければオッケーな人も居れば、無事故が条件の人も居れば、緊縛が出来るとか、尿道プレイが出来るとか、一箇所への在籍年数だとか、お店の営業年数だとか、受け答えだとか、職歴だとか、物凄く色々耳にします。

そういや、縦社会を経験してるから先輩の教えを無碍にしなさそう、と言われた事もありますな笑

因みに、私が前職を書いているのは、仏教の話を好き勝手にしたいから、というのがありますが、悪人じゃなさそうと思われる面があるからお店に了承して頂いてます。

その一方で「宗教」として考えると不安材料にもなります。

私の場合、ある程度は宗教を客観的に捉えられるか、そもそも全く興味が無いか、めちゃくちゃ詳しいか、という方が接しやすいので、私にとっては僧侶経験を書いていても来てくれる方達が「安心」なのです。

当たり前ですけど、宗教の事件があるたびに、総て同じに見える人からは、ただ父が僧侶というだけで子供の頃に得も言われぬ暴言を吐かれた事はありますしね。

何事をも客観的に見られない事はとても恐ろしいですが、事宗教に関しては被害を被った方も多いので客観的に見られなくなる方が居るのですよ。

それは仕方の無い話だと思う。

もし隠していて、私がふと僧侶経験からなる話をこぼした時、手に負えなくなってしまうので。

そしてついでに、私の顔を知る僧侶の中に万が一にもM男性が居て、誤って遊びに来ちゃったという不幸な事故を断固阻止したいからでもあります笑

もう一切の関わりが無いとは言え、私にバレたらあまりにも不安だと思う……

私が提供出来る「安心」と、私が必要としている「安心」についての話でした。

今回は、関わりの無さそうな話から真面目なSMの話をし始める、という前回の逆パターンで書いてみました!!

そして、最後に画像も添えておこう……ふふふ……

エロい尻

うーんエッチだわ……

アナルを犯す為だけの縛り……

お尻がかわいいの。

叩いても良し、蝋燭してもよし……

腰の縄グッチャグチャなんだけど、決めたいところ決めたらこうなっちゃって、私は相変わらず自由よね笑

そんな自由人は、画像とはまるで関係の無い話を始めます。

以下は読まなくて大丈夫です。

まあ、読んでくれたら多少の何かにはなるかもわからん。

最近ね、福祉について考えていたんだ。

ここのところ心理学の勉強をそのうちにちゃんとしてみたいと思っていたんだけど、心理のあるべき形って実際のところ何なんだろうって考えてて、時代によって全く違うと思ったんだ。

あるべき精神状態に「戻す」「治す」「訓練する」には、あるべき精神状態というものが存在しなければならないけど、存在するのは不確かな現段階での定義であって、確かな存在では無い気がした。

医学的に社会的に定義しなければならなくて定義しているに過ぎない架空の概念なのではないかと思った瞬間に、結局の所誰でも生きやすい社会の方が重要なのではないかと思った。

勿論、医学的な治療を否定しているわけではない、必要なもんは必要だ。

私が思索に耽るに当たってという、めちゃくちゃ個人的な話だ。

まあ、結果的に福祉について夢想するに至ったわけなんですよ。

身体障がい者の方が暮らしやすいバリアフリーの街ってのを作るのは物凄い重要な事だと思っているんだ。

建造物のバリアフリー化は勿論、それだけではなくて、お洒落な義肢装具とかね。

カラコン感覚の義眼とか、ハイヒールが履けたり透かし細工がされた美しい義手義足とか、ロボットのOriHimeとか、パワードスーツとか。

そういう事も含めた、楽しくて安全な「物理的」な社会進歩。

知能や心理にもそういうバリアフリーな在り方って多分あると思うんだよね。

きっともう考えてる人が沢山居て、パワハラやセクハラや侮辱や誹謗中傷やいじめが罰則化していったんだと思う。

罰則があるし当然やらない、という認識が極めて大多数になる所までちゃんとたどり着きつつあるでしょうし。

殺人がダメなのだって、宗教や法律を含む現時点での社会的決まりですから。

戦争そのものだって、日本では当然やらない方がいいというのが大多数だったのだ(過去形で書いたのは、まあ、防衛費とかそういう所を考慮したが、基本的には戦争は放棄しているという認識だろうと思う。)

そして、これは本人のソフトじゃなくて、極めてハードに近い方の在り方の話だと思うのです。

私はミストレスなわけだけど、心理的安全性を保つのが上手な女王様は、自分の限界をよく知っていると思うんだ。

ここまで来たら一旦休むとかを、自分自身で判断して実行できる人。

これは自身のソフトウェアの話なのです。

では、ハード、心理的に楽しくて安全な社会ってどんなものなんだろうって考えている。

これには特に具体的に言語化出来る程度に考えついている内容がまだない。

その前段階として、差別意識ってなんぞやについて考えてみた。

社会が当然そのようになっていてる有様を考えるのに良い材料にするために。

私の祖母は度々ここに書いているが、極めて差別意識の強い人だった。

ここで具体的に書くのはかなり憚られる様な言動をしてしまう人で、本当に一緒に外出するのや友達を会わせるのが恥ずかしい人間だった。

その強い差別意識というのは、社会的に持っていたものであり、自身がそうなる事への恐怖でもあったと思う。

彼女の時代は、少女時代に身体的、知能的な理由で戦争に行けなかった人は恥だったろう、祖母の昔話は書きたくない内容もある。

総合すると、公共で説明出来る内容が少なすぎるが、私の印象として、差別するのが社会的に当然である事が物凄く多かったように思う。

そして、其れ等について話すのと同じ様に、お腹を壊すと死ぬ程情けないと思ってるふしがあった。

怪我してもケロッとしているのに、お腹を壊すと物凄く落ち込むのだ。

経験での価値判断が強い人なので、そのへんとっても観察していると面白い。

他者から見て不可解な嫌悪をし始める事には大概経験が伴っている思い込みなんだよね。

お腹を壊してお手洗いから出られなかったのに、それを信じて貰えずに酷く叱責されたことがあるらしいのだ。

要は、この素直な生き物は差別的にならない経験がもし多かったならば、経験主義の人であるし、思想は違ったものになったのではないかと思う。

そして、経験を得る為には知識や知恵の要素も必要だ。

人類って差別無き世界の経験が非常に浅かったり、無かったりするのかもしれないと思った。

未知の領域に試行錯誤しながら踏み込んでいっている。

当たり前の様な世界になる為の、理解や説明の仕方がまだ無いか、広まっていないか。

戦国武将に同性愛が多かったことや、稚児や、陰間茶屋を知識として知っている人にとって、同性愛者が隣に居ることは人間的に当然過ぎて、何とも思わないのだ。

極めて差別的だった祖母ですが、事、同性愛については何の差別意識も無かったのです。

修道の世界だの菊の契りだのという言葉を私に教えたのは紛れもなく祖母であったし、母も兄も知識的に詳しかった。

(当然、大量の差別用語も教えられたわけですが、祖父と母と兄が祖母に対して怒るという環境。)

因みに生物好きの祖父としては、どういうわけだか大好きな昆虫にも雄同士で発情する個体が居たりするという事をそのままの形で知っていた。

人間にあってもおかしくは無いよね。という理解だし、わざわざただの進化で人を傷付けたり排除しようと考える人では無かった。

私は凄い環境で育ったもんだ。

ゲイである私の兄の事を、祖母は怒ることも嫌悪する事も一切無く、狼狽えもせずに修道の人と呼んでいる。

物凄く面白い事だと思うのです。

要するに、知識として持っている事と、それを共通認識として共有出来る環境と実践的な経験があったということなのです。

経験は強い、だけど経験は環境によって全然別の景色になる。

誰しもが友好的な知識と経験と環境に触れる機会を増やすことで、心理的に安全な社会の基盤になるのかもしれないと愚考するわけです。

知識とは、経験とは、環境とは、そんな事をもう少し長期的に考えたい。

考えたいだけで、何かを成したいわけじゃないので、ここに書いた事から誰かの何かが変化する事があれば儲けもんだなと思う。

それは、反発や否定でも勿論構わないのだよ。

私は別に良いでも悪いでも、わざわざ構ったりはしないという事です。

そうそう、祖母も母も当時の感覚ならば比較的高齢出産なので、私の祖母は90歳をちょいちょい過ぎています。

当然インターネットなんて触っていないし、そして、降り注ぐ焼夷弾があんまりに悔しいけど綺麗だった、庭の池に爆弾が落ちて鯉が全滅したと泣ける人です。

認識を改める機会はもう彼女には進言したりしないです。

これ読んじゃった人は当たり前だけど、全員若いですからね。

知識と経験と環境は充分に創り出せる世代なのです。

徒然なるままに書いてしまった……

ここまで読んじゃった人へ。

お疲れ様でした……笑

和室

本物の畳っていいなぁ……

畳の掃除は目に従ってやるものだよ……

という事を教えたり。

吊ったり拘束したり、色々したけどもね、一番私がエロスを感じる縛りって何だろうと思うと、こうなります。

責めとか、エロとか、何だろうな。

縄そのものの快楽ってなんだろうな。

私は受ける性癖が無いので、想像して試行錯誤するしか無いのですよ。

私の想像する事が合致したときに、私は緊縛を身につけられるのでしょうね。

今の私の緊縛が、私の好きな緊縛かと言われるとそうでもないって事です。

手首は長時間引っ張れないので途中で下ろしたりしつつ。

ケイン

皮膚がまだ赤いので、優しいもんです。

和室は緊縛するのが楽しいかもしれない。

緊縛をするのか、SM をするのか、緊縛でSMをするのか。

私は緊縛でSMしたいし、SMがしたい。

どこまで行ってもSMがしたい。

そんなことを思う。

SMがしたい……

SMしたい!!!

脳が焼き切れる様なSMがしたい!!!

薄っぺらい感想

先日、用事が終わって夕飯食べて、100分で名著の法華経回を見ていました。

本当はどうする家康で、信長に翻弄されてあたふたするかわいい元康を堪能しようと思ってたんだ、SM的な意味で(後々ちゃんと見た)

なのに、寄り道してしまったんだ。

法華経そのものってそんなに馴染みが無くてね。

部派仏教から大乗仏教の混沌からどうやって仏教が平和になったのかがわかってとてもスッキリした。

仏教の良いところはさ、経典が書かれた国や時代の幅が広いところだ。

後々の人の解釈の余地がある。

そして、組織が経験する今のところの事象を大概は既に経験している所だと思った。

法華経は面白い。

ポリティカル・コレクトネスなんですよね。

ここから先につらつら書く前に、これは法華経系教団の話ではないと強く主張しておく。

日本ではイコールでイメージしがちだなと思うので。

いや……しねえか笑

まあ、法華経の話はただの法華経の話です。

ただのほんの仏教好きの現代人が感じる仏教の話です。

まず、大乗仏教が教団の在り方を一変させるロジックを構築したことが感動的なのです。

西暦40年〜220年の間のどこかしらで成立したのかもしれない感じ。

釈迦が存在した紀元前6世紀前後から相当経っていますね。

日本には聖徳太子の時代に仏教と共に伝来しております。

初期仏教を相当な熱量で学んだ人、若しくは奇跡的に釈迦と似たような思考ロジックを持っていて、釈迦ならどう答えるか?という事をかなり高精度で出来る人でなければ、かなり難しい仕事だと思うのですよ。

ただ、真理というのはどんな切り口から入っても結果は同じという事でもあるから、悟りという状態に本気で切り込んで行けば、凡夫の我々でも同じ事を考えつけるという事でもある。

そこまでしておいて、如是我聞も使って始まるのもまた良いですよね。

私は阿南尊者を敬愛しているというのもありますがね。

これは正当なるお釈迦様の教えである!と言ってるわけだから。

ダメ押し的な感じもする。

解釈違いを起こして分裂した仏教に対して、平定させてしまう威力があるよね。

仏教という集団に於いて、この法華経が成立したといつことはなかなかにカオスだったんだろうなと思う。

厳格とポリコレのカオスという言い方をすると、まるで現代ですね。

鎌倉時代もそうです。

公家文化と武家文化のカオス

その後もね、法華経が重宝される瞬間というのは常に古い物と新しい物が激突している時なんじゃないかなと思います。

聖徳太子は文字通り新しい日本の統治システムを模索した。

新しくなろうとするときに、凄まじい影響力を持つのでしょう。

今、法華経を知る意義というのは、常識を変えられる事実を目の当たりに出来る事の様な気がします。

集団は変化出来るという事を信じられる様になるし、古代から既に立場の低い存在に優しくなろうとしてきたのですよ。

あらゆる差別が今尚あるけれど、それを辞めようともう随分古くから言われている。

そしてちゃんと少しずつ減っているとは思うわけです。

仏教に比べたら大概の「伝統的価値観」は新しいです。

誰かを傷付けてまで後生大事にせんでも……と、個人的には思うわけです。

なので、伝統を尊重しつつも、それでも優しい新しさに憧れて一つでも実行する事は大切なんだろうと、思うのです。

ただ、これは自分自身がたった一つでも新しい優しさを持って生きたいというお話で、同様の考えを持った人同士で寄り集まり古さを打倒したいわけでもなく、こうして文字にして書き留めておきたいというだけのことなのですよ。

まだかな〜〜

やっと遊べた!!

フロントさんから自由人と言われるM男さんの一人笑

忙しそうで本当に心配になってしまうね……

そのうちダブルプレイも実現してほしいしねーー

滅多に所望しないお約束の貢物を私は待ってる!!!!

尿道以外オッケーって言われたので、好きにしました。

散らかし過ぎて片付けも大変だった。

乳首が感じないと宣うので、躍起になって乳首攻めよう!とおもったんですけどね。

拘束したらあっさり乳首責めにも興奮してました。

思いの外あっさり過ぎてさ……

なんかエロかったから、吸引した……

キュポッと。

マゾスイッチがオンになると、実に色っぽくなるの、ときめく。

拘束した瞬間から尊敬の念をぶん投げてここからは私が上位だ!!と、社会的には上位の人間を好きに弄くり回すという、クラシックかつオーソドックスな楽しみを齎してくれるのが彼の魅力である。

まあ、世間の殆どの人は私よりは社会的に真面目だと思うのだがね笑

私は私にとっては非常に享楽的に生きているのだ(それは世間一般的に考えられる享楽とは方向性がまるで違う。一日コタツに転がって歴史番組を見る等の大変安上がりなものである。)

どうしょうもない変態っぷりがまた良いんだ……

バルーンが好きなので、口にもアナルにもバルーン入れて、最近ハマってる鞭で興奮しようぜの会を開く。

引っ掻く様に、先端の最先端だけを当てたり、弱く繰り返したり、急に強く打ったり撫でたり……楽しい……

鞭の万能な楽しさを再認識致しました。

浣腸をして、ご飯食べて!!!!!ってなりました。

人間健康が大切よ……

ご飯を食べる!!!

凄く大切。

父の地元では油で炒めた七味唐辛子を使うんだけども、それを「からし」と呼称していたら、若いM男さんに、からしって黄色いやつですよね?って、通じなかったので真面目に調べてみたんだ。

調べる前は、

唐辛子だって、唐のカラシって言うじゃないか。

黄色いのは和辛子だべさと、えらそーに横柄に不遜な態度で宣ったんだが。

でも、後からふと、からいって言葉自体はからし菜から来てなかったかしら……

ついでに、和ってついてるのって、洋に対してが多かった様な……洋服と和服、洋箪笥と和箪笥みたいな。

なんて思い出して、調べました笑

からし菜の由来は諸説あり。

田んぼを枯らす草なのか、からいという言葉が先なのか謎。

ようは、辛いってのは、からし菜みたいな味って事だ。

要は、からしは黄色いやつってのは間違いなく正しい!!!

そして私の最初の考えも近代においては決して間違っちゃいない。

ただ、辛味とかって言えばもう少し簡単に伝わったかもしれないと思った。

唐(この場合の唐は外国という使い方であり、実際はポルトガルとか朝鮮)からきたからしっぽいヤツで、唐辛子。

(余談ですが、日本で唐物と呼ぶ物は外国から来たもの、舶来品的な意味合いがあります。日本にとって外国を象徴するのが唐だったのでしょうね。お茶をやると唐物という言葉をよく使います。)

唐辛子の別名は蕃椒であって、山椒とか胡椒とかの椒が共通している。

現代中国語では辣椒で、古代中国語からきて日本で使っているの漢名が蕃椒だ。

この椒ってのは、低木になる小粒の実に冠される漢字っぽい。

山椒の木である「はじかみ」を連想させる物の事だと思う。

もっと古代中国語を調べれば話は変わってくるかもわからんが、中国漢字の成り立ちというのは、意味と音を合体させている。

木という意味に、叔という音というのが椒。

そして叔というのは甲骨文字の段階ではツル植物の小さい豆みたいな意味もあるが、現代中国語ではおっさんの事です。無理矢理解釈すればいけそうな感じが不思議です。

叔(shu)と椒(jiao)音に関しては、現代の漢語でたるマンダリンを検索しているので、当てにはなりませんが、日本語のショウも含め、何となく儚げで仲間っぽい音ですよね。

言語というのは、この程度の音の違いが大問題ではあるのですがね……

基本的に木になる小さいものっていう雰囲気に変わりはない。

日本語ではかぐわしいという意味もある。

中国語辞典の方では刺激的な物とも書いてあった。

からしもからし菜の小粒の実で作るが、木ではない。

なので、木偏の椒を使うのは不適格だったのだろう。

マスタードとか、からし粉末の事を中国では芥末と言う。

からし菜の実の事を、芥子と言う。

これは、アヘンであるケシの実とからし菜の実が似てたので室町時代に誤用したので、日本ではケシの事を中国語のからし菜の実と呼んでいる……っぽい。

芥は、中国的には小さな草という意味があるらしい。

小さい、儚い感じが、マイナス表現の時に使われて今の日本の「塵芥」みたいな芥の使い方になっただろうかしらね。

輸入言語の独自進化や誤用進化は本当に面白いのだ。

生きている。

本当に言語は旅をしながら生きてきたのだ。

プレイの後でこういう事を考えている。

多分相当な暇人という事なのですが、私はこういう事を考えたいが為に暇をつくっているので、主観的にはめちゃくちゃ忙しいし、充実している。

そして、ひたすら私が楽しいだけでかなり無益だ笑

という話でした。

まあ、いつもの事です。

尿道ブジーは楽しい。

遊びに来たは良いけれど、

数日前に別のSMクラブの女王様に、フィスト入れて頂いた反動で固くなっていて、指二本しか入らない。

緊縛もちょっとアレルギー体質で苦手。

もうね、めちゃくちゃ楽しかったです。

何が楽しいって、お互いの好きな事が何も出来ないじゃん!!!って罵って虐めるのが何よりも楽しかったです。

そして、既にすけべな形をした乳首をこれ以上すけべな形にしないで欲しいと抵抗する有様。

でも指一本も触れていなかったペニスがガチガチに興奮していて実に愛おしい。

いやよいやよもなんとやらですよ、本当に。

お腹にのしかかって無理矢理乳首弄くってたらボンテージ跡が富士山。

ちょうどクロッチ部分。

木花咲耶姫じゃん!とか言って写真を撮る。

お互いの素vs素の仁義なき戦い笑

アナル使えないならここ使うしか無いよね!?って、尿道ブジー。

小から初めて、その場で持っていた一番太いやつを入れる(持ち歩いてないだけでもっと太いやつもあるよ。もっと太いのがいい人は予約の時に言ってね〜)

太いやつ入れられて、結局めちゃくちゃ興奮しちゃっていた。

亀頭だけを虐めていたら、刺激的過ぎて自分でオナニーしますとか、言うからさ、そんなわがままは許されないよと叱り飛ばして一瞬で果てきった。

私の手は止めなかったけど……

そういう、淫靡な世界観ゼロのやり取りの中の泥臭い興奮って良いなと思う。

ブログで晒し上げて欲しそうだったから、ちゃんと書いておきました。

いつもダメダメでもいいよ。

かわいいからね。

でも、ベストなアナルも堪能してみたいとは思う。

一番大きいペニバンで、ズコズコに犯してしまいたい。

まだ見ぬベストアナルが楽しみでならない。

のしかかり苦手とか言ってたけど、バキバキになってたから、今度はお腹に乗って顔を踏みたい。

顔!踏みたいわ!!!

あいむそーりー

面白かったからプレイの事より先に文字を書いてしまおう。

メリケンに住んでいたことのある初めましてのM男さんに、あいむそーりーって非を認めて謝罪する事と、お気の毒に……って感じと、使うよね、面白いと思ったんだよねって無駄話を致しまして。

I’m sorryの使い分けるのを実演してくれた。

とてもとても『表現』なんだと思った。

そして、口を使った言葉と違って、文章というのは想像力と状況把握能力と文脈の読解が必要なんだなあと実感した。

読むというのは高度な事をやっているなと。

(そやって考えると、私に会いに来てくれる人は高度な脳の使い方を強いられているのだ笑)

むかーーし、若かりし頃にとある人が、職業によって使う言語が違うんだって言ってたんだけども、

根本的な言語の違いはとても顕著でわかりやすいというだけで、実は隣人とも違う言語を使っている。

『この世は次の瞬間には無くなって再構築されるという事を繰り返しているかもしれない。』

という雰囲気を表現するとき、

私は一切刹那滅的な感じと言うし、

バートランド・ラッセルは、世界五分前仮説と言うのだろうと思う。

(余談でありますが、世界五分前仮説について、私はずっと空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の教義だと思いこんでて、スパゲッティモンスター教一切五分前説と検索すると、私の恥ずかしい2018年の日記が出てくる。この場にて、ファクトチェックという概念を知らず疎かにしていた過去の私の愚かなる所業を謹んで謝罪申し上げる。)

これは、翻訳が入っているけど、漢字で同じ様な概念を伝えるのに、バックグラウンドの違いが出てきた例なんだよね。

結局のところ、宗教や国や民族や、コミュニケーションというのは相手が何を経験してきたか?ということを知る所から始まるきがするのだよ。

人間って本能的に、何かを交換したいのではないか?という考え方があるらしい。

細菌や化学物質レベルで接触する事も交換と言えるんだけど。

まあ、詳しく知りたい人は勉強してみてくれ。

喋るということは、大雑把に情報の交換なんだよね。

恋愛にしろ、SMにしろ、家族にしろ、友達にしろ、常に交換しているんだ。

誰かにわかってほしいと思ったら、伝えるだけじゃなくて受け取らなきゃいけない。

受け取ったら差し出さなきゃいけない。

そうでなかったら『楽しく』ないんだよね。

本能的にやりたいのだから、それは快感なんだと思う。

常に差し出して、受け取って行かなきゃ、ストレスが溜まるかもしれない。

労力を割いて、お金も称賛も無かったら、孤独だもの。

まあ、罵声を貰うこともあろうが……

なんてえ、事を、帰路に考えていました。

今日も脳トレしたね!

ただただこの日記を読むという高度な知能活動したね!

読んでくれてありがとう。

そして、私に考え事をするネタを提供してくれてありがとう。

凄く良いものを貰った。

プレイは帰って思い出しオナニーするまでがプレイ!

だと思うんだけど、私は帰って考え事をするまでがプレイです。

やんややんや

犯され待ったなし。

こういう竿と穴の為の縛りってのも良い。

緊縛そのものでの快楽と、犯す時のエッセンス的な緊縛と。

時に反目してしまう。

ただ、今日はこれ、明日はこれ、一人の中に両者が居ると、平和だ。

自意識的タブーをいかに減らして行くか、というのは私の命題だった。

タブーは生じては消え、消えては生じる。

要するに、何の指標にもならない不安定なものだと思う。

ただ、凪いでしまう。

だから、静かにするにはどうしたら良いのか、寛容そのものを自分のものにするしかないのよね。