先日、用事が終わって夕飯食べて、100分で名著の法華経回を見ていました。
本当はどうする家康で、信長に翻弄されてあたふたするかわいい元康を堪能しようと思ってたんだ、SM的な意味で(後々ちゃんと見た)
なのに、寄り道してしまったんだ。
法華経そのものってそんなに馴染みが無くてね。
部派仏教から大乗仏教の混沌からどうやって仏教が平和になったのかがわかってとてもスッキリした。
仏教の良いところはさ、経典が書かれた国や時代の幅が広いところだ。
後々の人の解釈の余地がある。
そして、組織が経験する今のところの事象を大概は既に経験している所だと思った。
法華経は面白い。
ポリティカル・コレクトネスなんですよね。
ここから先につらつら書く前に、これは法華経系教団の話ではないと強く主張しておく。
日本ではイコールでイメージしがちだなと思うので。
いや……しねえか笑
まあ、法華経の話はただの法華経の話です。
ただのほんの仏教好きの現代人が感じる仏教の話です。
まず、大乗仏教が教団の在り方を一変させるロジックを構築したことが感動的なのです。
西暦40年〜220年の間のどこかしらで成立したのかもしれない感じ。
釈迦が存在した紀元前6世紀前後から相当経っていますね。
日本には聖徳太子の時代に仏教と共に伝来しております。
初期仏教を相当な熱量で学んだ人、若しくは奇跡的に釈迦と似たような思考ロジックを持っていて、釈迦ならどう答えるか?という事をかなり高精度で出来る人でなければ、かなり難しい仕事だと思うのですよ。
ただ、真理というのはどんな切り口から入っても結果は同じという事でもあるから、悟りという状態に本気で切り込んで行けば、凡夫の我々でも同じ事を考えつけるという事でもある。
そこまでしておいて、如是我聞も使って始まるのもまた良いですよね。
私は阿南尊者を敬愛しているというのもありますがね。
これは正当なるお釈迦様の教えである!と言ってるわけだから。
ダメ押し的な感じもする。
解釈違いを起こして分裂した仏教に対して、平定させてしまう威力があるよね。
仏教という集団に於いて、この法華経が成立したといつことはなかなかにカオスだったんだろうなと思う。
厳格とポリコレのカオスという言い方をすると、まるで現代ですね。
鎌倉時代もそうです。
公家文化と武家文化のカオス
その後もね、法華経が重宝される瞬間というのは常に古い物と新しい物が激突している時なんじゃないかなと思います。
聖徳太子は文字通り新しい日本の統治システムを模索した。
新しくなろうとするときに、凄まじい影響力を持つのでしょう。
今、法華経を知る意義というのは、常識を変えられる事実を目の当たりに出来る事の様な気がします。
集団は変化出来るという事を信じられる様になるし、古代から既に立場の低い存在に優しくなろうとしてきたのですよ。
あらゆる差別が今尚あるけれど、それを辞めようともう随分古くから言われている。
そしてちゃんと少しずつ減っているとは思うわけです。
仏教に比べたら大概の「伝統的価値観」は新しいです。
誰かを傷付けてまで後生大事にせんでも……と、個人的には思うわけです。
なので、伝統を尊重しつつも、それでも優しい新しさに憧れて一つでも実行する事は大切なんだろうと、思うのです。
ただ、これは自分自身がたった一つでも新しい優しさを持って生きたいというお話で、同様の考えを持った人同士で寄り集まり古さを打倒したいわけでもなく、こうして文字にして書き留めておきたいというだけのことなのですよ。