今、私は、雑談しか、したくない!という強い意志のもと書く!
そうそう、案外と、パープルムーンの女王様ってどんな人が向いてるのかね?って記事は気になる人が多いテーマなんだなと思いました。先日書いたぶんは内容が内容なので、そのうちにもう少しちゃんと様子がおかしいやつを書こうと思いました。
そんなわけで今日のテーマは道です。
最近は茶道を始めようと思い立ちました。
ずっと裏千家でお稽古してきたわけなのですが、この度は憧れの武家茶道のお一つに!!かっこいい!合理的!という気持ち。
先生との出会いがあったもので。
細かい作法はお稽古を繰り返せば変化するのでしょうね。しないかもしれないけど。
裏千家を幼稚園から中学校まで飛び飛びにお稽古していたので、まあ、多分、なんとなく先生のモノマネをしていた昔よりも、能動的に考えながら学習出来たとして10年位やれば何となく考えなくても動ける様になるかもわかりませんね。わからんけど。
月に二度の靴作りを2018年の末位からやってて、まだ釘をまともに打てないので笑
人間の無意識の身体学習って結構大変な事よね。
そして、私は何故お茶をやりたかったのだろうかしらと考えるのです。
私は子供の頃はやる環境にあっただけで、好きでやっていたわけではない。
小さな頃は、母について行きたかったとか、おば様方に「小さくてかわいい」と重宝される良さがあったろうと思う。自尊心の芽生えですね。
小学生位になると、勉強も運動も出来なかったので、珍しく同級生よりは知っている事、出来る事の一つだった。(その時思ってたより、実際は出来てなかったけど笑)膨れ上がった自尊心の象徴ですね。
そして、中学生、厨二病真っ盛りになりますと、ますます自尊心を追い求める愚かな方向に人間性が突き進み、承認欲求という所まで肥大化するわけだけど、同時に脳味噌が皮肉っぽくなってきて、侘茶っていいな……めちゃくちゃ高い道具使って手間と時間をかけといて侘しいってなんだよ……貧乏ごっこか……?マリー・アントワネットのプチ・トリアノンかよ??と、思っていました。なんかこう、嫌な感じしますね。今もあまり変わらないけど、なんかいやらしい。というか、こう、自己回路が卑しい感じがする。
それと同時に、釜に水をさした時の無音、衣擦れ、茶碗に注ぐお湯と水の音の違い。そういう事を楽しんでいたのもその頃ですね。
自分が集中していると、お客さん役の人も集中出来る事に気が付くし、そしてその中だからふと笑いが溢れる事の妙にも微かに触れる。
これはSMも同じなのよね。こっちが集中してればあっちも集中するし、あっちが集中するならこっちも集中するわけで、私は、プレイの中に集中する瞬間を作り、そしてぶち壊しにするのが大好きです。私の命令ではなく、私のコントロールで振り回した気になって遊ぶのです。
お茶事を通しでやると、その静と動の仕組みがよくわかる、というか、何となく感じていた静と動が既にそこに仕組みとして演出として構成されていて、その事を体感する為の物なのかもしれないと思った。
そして、辞めた笑
お茶、マジですげえって思ってから、辞めたんですよ。
凄いですよね、私のセンス。意味がわかりませんよ、概ね人はそこでのめり込むんですよ。そこで辞める人はなかなか見たことが無いです。
その後僧侶になりましたが、お茶と仏教の関わりはまあ別の機会にね……
ただ、既に完璧な真理、答え、そのような、たどり着かねばならないものの入口があるような気がしている。まだ死にたくない!まだ早い!に近い、言語化できない敗北感の様な雰囲気の何かがあった。単純に言うと、多分利休に嫉妬したんだと思う。生意気だな笑
そもそもだけど、水の音に森羅万象を感じて悦に入る中学生が、心からの友に出会える確率ってどのくらいだろうか?
私は自ら進んで孤独になどなりたくは無いから、断片だけを残して、そっと靴底にしまっておくわけ。たまに取り出して眺めるのですよ。水の味を感じたりする時にね。
私はね、水の音に恍惚としていても、気味が悪くない歳になれたのかもしれません。
私普通がいい、普通こう、普通そう、普通に拘るのは普通じゃないからなのかもしれんよ ね笑
近頃本当に生きやすい。
周りの人も、私が水の音に感嘆としていても、まあ円香らしいね。と思うだけですよ。
大人ってそういう人多いし。
特に変じゃないもの。
生きるのほんと楽しい……
ああ、めちゃくちゃ集中してSMしたい……
(休日の円香さんより)