女王様ってどんな人が向いてるのかな

パープルムーンは常に女王様を募集しているんだけど、今もかなり真剣に求めております。そして、ふと考える。

どんな人が向いてるのかなーって。

今から書くことは私個人の見解であって、パープルムーンの総意では無いし、採用基準でも無いので、ただの参考です。

女王様の常識についてとか、意外に思うルールとかって、入ってみるとあるかもしれないんだけど、多分、同じバイト先や職場で1年以上継続して働いた事がある人なら大丈夫だと思うんだよね。

一年続いた事が無かったとしてもね、喧嘩になるとか、無断欠勤するとかじゃなく、報告、連絡、相談が出来れば問題無い。

性格も色んな人がいるよね〜って思ってるし、思えるなら純粋に楽しいとは思うけど、別に皆仲良くしなきゃいけないわけでもない。

人間的にはね、めちゃくちゃ明るい人も居れば、大人しい人も居るし、自分が何日、何時間やりたいとか、割と自由だと思う。

自由だ。

そんで、SMが好きなら何だっていいんだ。

色んなSMがあると思うんだけど、その内容って凄く幅広いし。

自分とは違う趣味を楽しめる人だと、本当に楽しいと思う。

そうじゃなかったとしても、自分のやりたいプレイが出来る様に、自分を知ってもらえば良いと思う。そのための道具を沢山集めれば良いと思う。

プレイギャラリーの撮影や、ブログなんかでね。

ブログを書くのは大変、なの、かもしれない。私は大変ではないので参考にならんが……

書ける子でも、言葉遣いや内容でお客さんの雰囲気も変わってしまうから、そういうのを先輩に相談したり。

私は最初の頃は少し言葉遣いや内容をチェックしてもらったり、指摘されて直す事もありましたね。

そもそもSMが好きって、技術的な話は後付だし。

SMが好きってなんだろうな……

私個人的な、ちょーーーー個人的な話だとさ、

私はSMに纏わる世界観が好きだよね。

The Cellのフェティッシュなシーンが好きだったりもするし。

人力車の車夫を舎弟にして送り迎えさせて、女形のかわいい蘭丸を振り回し、本人はイケメンな少尉と結婚して義父と大喧嘩して仲良しになる、そんなペチャパイの紅緒さんに女性としての憧れを抱いたり(人間的に大きな間違いを犯している!!!!!!)

そんな所からさ、漫画や、アニメや、映画や、小説や、インターネットも含め、様々な所でSMを見かける度に、いいな、いいな、やりたいな、いいなと思っていた。

やりたい時、飛び込める時点である程度向いてる。

きちんと情報収集するタイプの人もいるだろうし、そういう人も何かのキッカケでやり始めちゃう。

ただ、少しだけ思うけど、一年待ったら一年キャリアが短くなる。

勿論女王様には殆ど年齢は関係無いけど、所属歴は長ければ長い程良い。

だからね、飛び込んで欲しいよねと思うの。

そんな感じ〜

たまには

こういう事もたまにやる。

うーん。

もうちょい改良したい。

うーん。

私は私のこういう、できるんじゃない?やってみるか!っていう、フリースタイルの縄を楽しんでくれる人がすきだなぁー

当然だけど、型という概念は好きですし、どちらかというとそういう世界好きです。いつか弓道を始めたい。

しかし、私やっぱり縄に関してはどうしても性癖が介在するので、型とかそういうのは苦手になるね。

そして、人に見せるのもやっぱり好きではないと思った。

単に、縛ってSMがしたい……ってシンプルに思うよね。

その、私が我が道を行く理由づけという意味で、色々考えるけど、まあ、普通にそれが頭に残る。

SMが好きだね……

超正常刺激

友人とお話をしていたら、超正常刺激という物を教えてくれたんだ。

私はお話中に何で過剰な防衛をしたり、領土を広げたり、経済を拡大させたりするんだろう……という疑問を漏らしていた。

それに対して、ちょっと面白い話として超正常刺激という機能を教えてくれた。

もしかしたら、超正常刺激的な行動かもしれないね、と。

現実には有り得ない様な誇張をしても魅力的に見えてしまう。

大きい卵を温める習性がある鳥は、普通の卵と、その種の普通より大きい卵を置いておくと、大きい卵を温めるそうな。

漫画の誇張されたルックスにときめくのも同じ事なんだそうで。

女王様がコルセットでウェストを引き絞ったり、ハイヒールを履くのも、それが魅力的に見えるのも超正常刺激なのかも……なんて、思ったりして。

人間の場合、鳥よりも「魅力的」の種類が、本能にしろ社会にしろ非常に多岐に渡っていると思う。

しかもインターネットやテレビで切り取られた美しい場面場面だけが目に入る。

そして、現実感を失って、どうして私の卵はダチョウより小さいの?という不満を抱くのだろうね。

すぐ隣にはウズラが卵を温めて居るのに。

そして、友人は煩悩ってそういう事かもしれないと言っていた。

ほんとだ!!!!ってなる。

煩悩=超正常刺激とも言えるし、煩悩の中には超正常刺激が含まれてるとも言えるかもしれない。

もしかしたら、適切な表現が仏教にはあるかもしれないけど、私は不勉強なのでちょっとわからない。

とりあえず、思考する事は出来るので話を続ける。

超正常刺激的だと思われる感覚を省いて行くと、生命活動的に必要な部分もより明確になる。

生命活動と遺伝子を残すのに必要な分以外は煩悩であると言える……

生命を維持できる食事以上の食事を求めるからね。

だから太る。

愚かだな私……

ただ、その不思議さを感じていたからこそ、超正常刺激という概念がすんなりと入ってきたのかもしれない。

煩悩はけして無駄という訳では無い。

煩悩が無ければ、煩悩から逃れるとか無くすということも無い。

誇張された架空の物質や概念に執着したからこそ、見えてくる物もあるのだろうね。

私は、何で戦争をするのか、政治的経済的な理由についてはともかくとして、根底には架空の誇張された刺激に支配されているのだと思っている。

今眼の前に広がる世界の中で、どう生きていくか、その事しか見ないでいたほうが煩悩に飲み込まれずに済むと思う。

煩悩を抱いている人から見たら、質素で、清貧で、そして、向上心のない奴かもしれない。

しかしながら、悲しむ事も、悔しむ事も、辛がる事も無い、苦しみが無い。

まあね、SMを生業にしていると皆が皆そうなったら困るわけだし、どうせそんな風にはなれないとわかっているんだけどね。

ただ、私は今が本来幸せであるという智慧は持っている。

貪りたいと思ったとしても、その事に苦しみはしない。

やれるもんならやるけどね。

という気持ちなのだ。

削ぎ落として削ぎ落として今残っているのは、SMと、衣食住だけなのです。

私って、シンプルな生き物だなと思います。

そしてね、脳が快楽を覚えると、脳は血行良くなって物凄く考え事が捗るのです。

性癖

性癖という言葉には、本来セクシュアルな意味は特にない。

SMではセクシュアルな雰囲で使われるけど、実際は性格的な偏りの事なのですよね。

そういう意味で、正しく私の性癖というのは、男性を虐める事かもしれないし、支配する事かもしれないし、更にいうと、育てるという名の調教かもしれないとよく思う。

独善的で命令的でもある。

私好みの人間にして差し上げよう。

きっと、最高に良い男になるよ。

私みたいな悪趣味な人間にとってはね……

という、どうにも取り返しの付かない性癖だ。

あかねさんを見ていてもめちゃくちゃ性格の癖だなと思います。

私の考えるミストレスというのは、性格の事だという事になる。

ルックスでも、セクシュアリティでも、ファッションでも、フェチズムでも、無い。

性格の問題なのです。

セクシュアルな面を抽出したとしても、要は「自分のフェチズムを堂々と追求して、相手にそれを行う事に躊躇がない事。」とも言えるので、やはり性格なのだろうと思う。

行為としてのSM的な事というのは、私の言うことを聴かせる為の方法かもしれない。

行為としても大好きなわけだけど、本質的には好きにしたいという事が根底にあるという感じ。

勿論当然だが、パープルのミストレス達はどこかにその性格的な要素を皆持っていると思う。

その上で何を行うのか、夢想する日々だ。

遂に忘れられる

よくここに書く私の祖母の話だ。

先日久しぶりにあったのだが、忘れられていた笑

いつかそんな日が来るのであろうと覚悟していて、そうなったら少し寂しく想うのであろうと思っていたのだがね。

余所行きの大変上品な奥様の口調で対応されたのです。

全然余裕で快適でした。

多分私が薄情とかではない、人としてマトモな扱いを受けたという事を言いたいのである。

私はふと思うのです。

こいつとんだ性格してやがるぜ……!!!

って思わされる人間性を面白い奴だなと思えているとさ、どんな面を見せられてもこちらからの情は変わらないんだと思うのです。

そして、どんな状態であっても、構わないのですよ。

私の事を忘れるなら大いに忘れて頂いて結構で、私からの愛着をひっそりと持つ。

ライトな話

もう少しライトな日記を書こうと思った。

まずこの尻の写真を見てほしい。

これ、梁に縄をかけて、強制バックのスタイルで固定しています。

バックでしか犯せない。

蝋燭をやるのも良いし。

鞭も打ちやすい。

ケインの痛みからも逃れられない。

パドルも良いね。

乳搾りスタイルでP責しても良いね。

これP縛りして、上に引っ張るのも良いのではないかと。

良いと思うんだ。

秀逸だと思うんだよね。

なるべくライトにしようと思うと、特に書くことが思い付かない。

「面白い話」とかが非常に下手くそだ。

私が心底尊敬している文筆家は片桐はいりさんなのです。

それは、自分には出来ない文体だからなのですよね。

しかし、多少は面白い文章も操りたいものですね。

大量の猫と安心

休日、実家に行ってきた。

保護猫ボランティアをやっているので、沢山猫が居る。

面白い環境だ。

病気猫の部屋ってのがあってね、そこには少し前まで、物凄くでーーーっかくて物凄く優しいボスが居て、先の短い子を抱きかかえて寝る様な子だったんだけど、少し前にこの世を去ってしまった。

その後は初代ボスの次に身体の大きい二代目ボスが居たんだよね。

もう治療も出来ない一番弱っている子の隣に寄り添って舐めたり温めたりしていた。

寝床、食事、清潔(と、医療)

猫はこれが揃っていると、そのような社会構造になるらしい。

先日の福祉について考えていた事と繋がってね、人間も弱者への寄り添いをする最低の条件は、寝床、食事、清潔と医療なのかもしれない。

猫の場合、医療は必要なんだけど、猫からしたら辛いことをしてくる面があると思うので、清潔(医療)と表現しておく笑

勿論、人間と猫は哺乳類って位しか共通点が無いし、猫でも出来るから人間もとかって話では無いし、ましてやその事が正しいとか、善良という道徳的な事を言いたいわけではない。

ただ単に、現在は寄り添える世界の方がいいらしいという常識があるので、もし、それを実行するならば、集団全体に寝床、食事、清潔と医療が最低限は必要なのかもしれないね……と、思ったというだけの事だ。

そして更に、猫の集団でもそうならない集団もある。

人間大っきらい部屋の猫達は、ボスだとかなんだとか以前に、カチカチに固まって身を守りあっている。

同じ環境の下で熟と感じるのだが、寝床と食事と清潔は誰にでも与えられていても、安心するかどうか?というのはとても個人的な価値観の問題なのだ。

人間にとっても安心の条件は本当に様々だなと思う。

安心って、何でしょうね?

M男さんもさ、女王様に仕える条件のかなり上位の所に安心ってあると思うんだよ。

身を任せるわけだから。

拘束される時点で、生殺与奪の権利を投げ渡すに等しいわけだから、流石に殺さないだろうというレベルから総ては始まると思う。

そして、この人!!!ってなる為の安心感というのは、本当に多岐に渡るわけですよね。

殺されなければオッケーな人も居れば、無事故が条件の人も居れば、緊縛が出来るとか、尿道プレイが出来るとか、一箇所への在籍年数だとか、お店の営業年数だとか、受け答えだとか、職歴だとか、物凄く色々耳にします。

そういや、縦社会を経験してるから先輩の教えを無碍にしなさそう、と言われた事もありますな笑

因みに、私が前職を書いているのは、仏教の話を好き勝手にしたいから、というのがありますが、悪人じゃなさそうと思われる面があるからお店に了承して頂いてます。

その一方で「宗教」として考えると不安材料にもなります。

私の場合、ある程度は宗教を客観的に捉えられるか、そもそも全く興味が無いか、めちゃくちゃ詳しいか、という方が接しやすいので、私にとっては僧侶経験を書いていても来てくれる方達が「安心」なのです。

当たり前ですけど、宗教の事件があるたびに、総て同じに見える人からは、ただ父が僧侶というだけで子供の頃に得も言われぬ暴言を吐かれた事はありますしね。

何事をも客観的に見られない事はとても恐ろしいですが、事宗教に関しては被害を被った方も多いので客観的に見られなくなる方が居るのですよ。

それは仕方の無い話だと思う。

もし隠していて、私がふと僧侶経験からなる話をこぼした時、手に負えなくなってしまうので。

そしてついでに、私の顔を知る僧侶の中に万が一にもM男性が居て、誤って遊びに来ちゃったという不幸な事故を断固阻止したいからでもあります笑

もう一切の関わりが無いとは言え、私にバレたらあまりにも不安だと思う……

私が提供出来る「安心」と、私が必要としている「安心」についての話でした。

今回は、関わりの無さそうな話から真面目なSMの話をし始める、という前回の逆パターンで書いてみました!!

そして、最後に画像も添えておこう……ふふふ……

エロい尻

うーんエッチだわ……

アナルを犯す為だけの縛り……

お尻がかわいいの。

叩いても良し、蝋燭してもよし……

腰の縄グッチャグチャなんだけど、決めたいところ決めたらこうなっちゃって、私は相変わらず自由よね笑

そんな自由人は、画像とはまるで関係の無い話を始めます。

以下は読まなくて大丈夫です。

まあ、読んでくれたら多少の何かにはなるかもわからん。

最近ね、福祉について考えていたんだ。

ここのところ心理学の勉強をそのうちにちゃんとしてみたいと思っていたんだけど、心理のあるべき形って実際のところ何なんだろうって考えてて、時代によって全く違うと思ったんだ。

あるべき精神状態に「戻す」「治す」「訓練する」には、あるべき精神状態というものが存在しなければならないけど、存在するのは不確かな現段階での定義であって、確かな存在では無い気がした。

医学的に社会的に定義しなければならなくて定義しているに過ぎない架空の概念なのではないかと思った瞬間に、結局の所誰でも生きやすい社会の方が重要なのではないかと思った。

勿論、医学的な治療を否定しているわけではない、必要なもんは必要だ。

私が思索に耽るに当たってという、めちゃくちゃ個人的な話だ。

まあ、結果的に福祉について夢想するに至ったわけなんですよ。

身体障がい者の方が暮らしやすいバリアフリーの街ってのを作るのは物凄い重要な事だと思っているんだ。

建造物のバリアフリー化は勿論、それだけではなくて、お洒落な義肢装具とかね。

カラコン感覚の義眼とか、ハイヒールが履けたり透かし細工がされた美しい義手義足とか、ロボットのOriHimeとか、パワードスーツとか。

そういう事も含めた、楽しくて安全な「物理的」な社会進歩。

知能や心理にもそういうバリアフリーな在り方って多分あると思うんだよね。

きっともう考えてる人が沢山居て、パワハラやセクハラや侮辱や誹謗中傷やいじめが罰則化していったんだと思う。

罰則があるし当然やらない、という認識が極めて大多数になる所までちゃんとたどり着きつつあるでしょうし。

殺人がダメなのだって、宗教や法律を含む現時点での社会的決まりですから。

戦争そのものだって、日本では当然やらない方がいいというのが大多数だったのだ(過去形で書いたのは、まあ、防衛費とかそういう所を考慮したが、基本的には戦争は放棄しているという認識だろうと思う。)

そして、これは本人のソフトじゃなくて、極めてハードに近い方の在り方の話だと思うのです。

私はミストレスなわけだけど、心理的安全性を保つのが上手な女王様は、自分の限界をよく知っていると思うんだ。

ここまで来たら一旦休むとかを、自分自身で判断して実行できる人。

これは自身のソフトウェアの話なのです。

では、ハード、心理的に楽しくて安全な社会ってどんなものなんだろうって考えている。

これには特に具体的に言語化出来る程度に考えついている内容がまだない。

その前段階として、差別意識ってなんぞやについて考えてみた。

社会が当然そのようになっていてる有様を考えるのに良い材料にするために。

私の祖母は度々ここに書いているが、極めて差別意識の強い人だった。

ここで具体的に書くのはかなり憚られる様な言動をしてしまう人で、本当に一緒に外出するのや友達を会わせるのが恥ずかしい人間だった。

その強い差別意識というのは、社会的に持っていたものであり、自身がそうなる事への恐怖でもあったと思う。

彼女の時代は、少女時代に身体的、知能的な理由で戦争に行けなかった人は恥だったろう、祖母の昔話は書きたくない内容もある。

総合すると、公共で説明出来る内容が少なすぎるが、私の印象として、差別するのが社会的に当然である事が物凄く多かったように思う。

そして、其れ等について話すのと同じ様に、お腹を壊すと死ぬ程情けないと思ってるふしがあった。

怪我してもケロッとしているのに、お腹を壊すと物凄く落ち込むのだ。

経験での価値判断が強い人なので、そのへんとっても観察していると面白い。

他者から見て不可解な嫌悪をし始める事には大概経験が伴っている思い込みなんだよね。

お腹を壊してお手洗いから出られなかったのに、それを信じて貰えずに酷く叱責されたことがあるらしいのだ。

要は、この素直な生き物は差別的にならない経験がもし多かったならば、経験主義の人であるし、思想は違ったものになったのではないかと思う。

そして、経験を得る為には知識や知恵の要素も必要だ。

人類って差別無き世界の経験が非常に浅かったり、無かったりするのかもしれないと思った。

未知の領域に試行錯誤しながら踏み込んでいっている。

当たり前の様な世界になる為の、理解や説明の仕方がまだ無いか、広まっていないか。

戦国武将に同性愛が多かったことや、稚児や、陰間茶屋を知識として知っている人にとって、同性愛者が隣に居ることは人間的に当然過ぎて、何とも思わないのだ。

極めて差別的だった祖母ですが、事、同性愛については何の差別意識も無かったのです。

修道の世界だの菊の契りだのという言葉を私に教えたのは紛れもなく祖母であったし、母も兄も知識的に詳しかった。

(当然、大量の差別用語も教えられたわけですが、祖父と母と兄が祖母に対して怒るという環境。)

因みに生物好きの祖父としては、どういうわけだか大好きな昆虫にも雄同士で発情する個体が居たりするという事をそのままの形で知っていた。

人間にあってもおかしくは無いよね。という理解だし、わざわざただの進化で人を傷付けたり排除しようと考える人では無かった。

私は凄い環境で育ったもんだ。

ゲイである私の兄の事を、祖母は怒ることも嫌悪する事も一切無く、狼狽えもせずに修道の人と呼んでいる。

物凄く面白い事だと思うのです。

要するに、知識として持っている事と、それを共通認識として共有出来る環境と実践的な経験があったということなのです。

経験は強い、だけど経験は環境によって全然別の景色になる。

誰しもが友好的な知識と経験と環境に触れる機会を増やすことで、心理的に安全な社会の基盤になるのかもしれないと愚考するわけです。

知識とは、経験とは、環境とは、そんな事をもう少し長期的に考えたい。

考えたいだけで、何かを成したいわけじゃないので、ここに書いた事から誰かの何かが変化する事があれば儲けもんだなと思う。

それは、反発や否定でも勿論構わないのだよ。

私は別に良いでも悪いでも、わざわざ構ったりはしないという事です。

そうそう、祖母も母も当時の感覚ならば比較的高齢出産なので、私の祖母は90歳をちょいちょい過ぎています。

当然インターネットなんて触っていないし、そして、降り注ぐ焼夷弾があんまりに悔しいけど綺麗だった、庭の池に爆弾が落ちて鯉が全滅したと泣ける人です。

認識を改める機会はもう彼女には進言したりしないです。

これ読んじゃった人は当たり前だけど、全員若いですからね。

知識と経験と環境は充分に創り出せる世代なのです。

徒然なるままに書いてしまった……

ここまで読んじゃった人へ。

お疲れ様でした……笑

和室

本物の畳っていいなぁ……

畳の掃除は目に従ってやるものだよ……

という事を教えたり。

吊ったり拘束したり、色々したけどもね、一番私がエロスを感じる縛りって何だろうと思うと、こうなります。

責めとか、エロとか、何だろうな。

縄そのものの快楽ってなんだろうな。

私は受ける性癖が無いので、想像して試行錯誤するしか無いのですよ。

私の想像する事が合致したときに、私は緊縛を身につけられるのでしょうね。

今の私の緊縛が、私の好きな緊縛かと言われるとそうでもないって事です。

手首は長時間引っ張れないので途中で下ろしたりしつつ。

ケイン

皮膚がまだ赤いので、優しいもんです。

和室は緊縛するのが楽しいかもしれない。

緊縛をするのか、SM をするのか、緊縛でSMをするのか。

私は緊縛でSMしたいし、SMがしたい。

どこまで行ってもSMがしたい。

そんなことを思う。

SMがしたい……

SMしたい!!!

脳が焼き切れる様なSMがしたい!!!

薄っぺらい感想

先日、用事が終わって夕飯食べて、100分で名著の法華経回を見ていました。

本当はどうする家康で、信長に翻弄されてあたふたするかわいい元康を堪能しようと思ってたんだ、SM的な意味で(後々ちゃんと見た)

なのに、寄り道してしまったんだ。

法華経そのものってそんなに馴染みが無くてね。

部派仏教から大乗仏教の混沌からどうやって仏教が平和になったのかがわかってとてもスッキリした。

仏教の良いところはさ、経典が書かれた国や時代の幅が広いところだ。

後々の人の解釈の余地がある。

そして、組織が経験する今のところの事象を大概は既に経験している所だと思った。

法華経は面白い。

ポリティカル・コレクトネスなんですよね。

ここから先につらつら書く前に、これは法華経系教団の話ではないと強く主張しておく。

日本ではイコールでイメージしがちだなと思うので。

いや……しねえか笑

まあ、法華経の話はただの法華経の話です。

ただのほんの仏教好きの現代人が感じる仏教の話です。

まず、大乗仏教が教団の在り方を一変させるロジックを構築したことが感動的なのです。

西暦40年〜220年の間のどこかしらで成立したのかもしれない感じ。

釈迦が存在した紀元前6世紀前後から相当経っていますね。

日本には聖徳太子の時代に仏教と共に伝来しております。

初期仏教を相当な熱量で学んだ人、若しくは奇跡的に釈迦と似たような思考ロジックを持っていて、釈迦ならどう答えるか?という事をかなり高精度で出来る人でなければ、かなり難しい仕事だと思うのですよ。

ただ、真理というのはどんな切り口から入っても結果は同じという事でもあるから、悟りという状態に本気で切り込んで行けば、凡夫の我々でも同じ事を考えつけるという事でもある。

そこまでしておいて、如是我聞も使って始まるのもまた良いですよね。

私は阿南尊者を敬愛しているというのもありますがね。

これは正当なるお釈迦様の教えである!と言ってるわけだから。

ダメ押し的な感じもする。

解釈違いを起こして分裂した仏教に対して、平定させてしまう威力があるよね。

仏教という集団に於いて、この法華経が成立したといつことはなかなかにカオスだったんだろうなと思う。

厳格とポリコレのカオスという言い方をすると、まるで現代ですね。

鎌倉時代もそうです。

公家文化と武家文化のカオス

その後もね、法華経が重宝される瞬間というのは常に古い物と新しい物が激突している時なんじゃないかなと思います。

聖徳太子は文字通り新しい日本の統治システムを模索した。

新しくなろうとするときに、凄まじい影響力を持つのでしょう。

今、法華経を知る意義というのは、常識を変えられる事実を目の当たりに出来る事の様な気がします。

集団は変化出来るという事を信じられる様になるし、古代から既に立場の低い存在に優しくなろうとしてきたのですよ。

あらゆる差別が今尚あるけれど、それを辞めようともう随分古くから言われている。

そしてちゃんと少しずつ減っているとは思うわけです。

仏教に比べたら大概の「伝統的価値観」は新しいです。

誰かを傷付けてまで後生大事にせんでも……と、個人的には思うわけです。

なので、伝統を尊重しつつも、それでも優しい新しさに憧れて一つでも実行する事は大切なんだろうと、思うのです。

ただ、これは自分自身がたった一つでも新しい優しさを持って生きたいというお話で、同様の考えを持った人同士で寄り集まり古さを打倒したいわけでもなく、こうして文字にして書き留めておきたいというだけのことなのですよ。