非日常
母がよくお茶室は小宇宙であるとか、非日常とか、空間芸術とか、なんか色々言っていたのですが。
日常から刀を置いて、腹を割って話す、という前提の元で探り合う戦国武将の政治的茶の湯、禅の名の下に行われるわび茶、まあ、面白いですよね。
SMは非日常と言いますけど、非日常というのは日常を際立たせる。
政治的な関係の為に茶席を利用してきたのは何故なんだろうかと、SMは非日常という言葉を聴くたびに思う。
戦国武将にとっての日常は裏切りが当然で、すぐ殺されちゃうわけですから、躙口の恐怖、四畳半の緊張、銀蓋の不安は計り知れないわけですよね。
恐怖や危険や困難を乗り越えてでもその四畳半に踏み入れる価値をお互いに確認していたのかしらね。
そうやって考えると、社会的危険性や身体的危険はある程度はあってもSMは甘ったるい世界だわね。
ところが、簡単に死ぬ世界で確立されたわび茶も元を正せば禅によるものなんだけど、禅そのものも鎌倉時代の乱世での思想、そして、更に遡れば仏教自体も政治利用の為に輸入された。
ますますややこしい事になってますね笑
本質を確定なんか出来ないって事ですね。
それはSMも同じ事でしょうけど。
世界を構築する事、相手の力を制限する事、一時を共に過ごす事、SMクラブの女王様は茶人に極めて近いのでしょう。
多くの人にとっては非日常でしょう。
でも、茶人にとって茶室は日常でしょう。
私にとってもSMは日常です笑
面白いですね、千利休は茶人として生きたんですよね。
千利休が必要だったんですよ………ふふふ
人間が非日常を求める気持ちは普遍的です、そして、刀を持たない事によって刀を認識する様に、今を生きる事になる。
最近カフェインとアルコールをほぼとらないのですが、とらなくなったら、珈琲に求めていたのも、ビールに求めていたのも、苦味であったと気付く。
日常を離れた時、日常に求めていた物に気が付くのかもしれない。
日常で不要な物にも気が付くかもしれない。
自己認識の深みが増すのかもしれない。
まあ、私にとっては日常の事なので、どうなのかしらと思うだけですが笑
利休にとっての日常と非日常は何だったのでしょうか。
この世の中には、非日常を必ずしも必要としない外れた人間も居るのかもしれないし、利休にも隠された非日常があったのかもしれない。
切腹する時、彼は非日常を感じたのだろうか………
もしか日常だったのだろうか。
武将に接してきた彼は何を生きたのだろうか。
無駄に色々考える。
正に無駄!!
でも今日もちゃんと日常的なSMしてます笑