仏教とSMについて話して欲しいと、度々他所様から言われる。
その度に、じゃあまず存在とは何か?というところの擦り合わせに、何シリーズか……まあ、仏教的には死ぬまでその話し続けるんですけどね……端折っても良いんだけど端折るなら経典読んでもらうのがてっとり早くて……
で、そこまで存在についての擦り合わせが出来てるって前提になった先の落ちを言っとくと、ぶっちゃけ何でもどうでもいい。
というたった一言の結論ですけど良いんですか?
となる。
というお話を、変態僧侶と語らう。
佛というのは人を超えたという漢字らしいですよ。
勉強になりますねえ。
「個人的に、イメージ化されている佛様は自己の別人格である「タルパ」が固定化されて出来上がったもの、あるいはタルパの集合体としての存在と思っている。」
とか言われたので、
私は妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈の良さ、その影響力、私にとっていかにそれが大切なお経かという話と、掬い上げる事の出来ない悲しみについて私は朝っぱらから語ってたのに。
今からM性感行ってくるから!またね!!って話をぶった切られたのである。
え?嘘でしょ?M性感行くからで話を終わらせた!まあ私もこれからSMクラブに出勤だけどね!!!!!!!と、いう、「現世を生きる事しかやってない人達」の大変刹那的な対話となった。
話の内容は結構暑苦しかったんだけど、
緊縛を禅行とする事は出来るのか?当然の様にロジック的には出来る、出来るが、縄が無くても良い。
縄であってもいい、縄でしか行ぜない人がいても良いし、別に縄は無くても良い。
坐禅も同じよ。
坐禅でもいい、只管打坐でしか行ぜない人がいても良いし、別に坐禅で無くても良い。
掃除しかできない人が、掃除をし続けて悟りに至る事もある。
これしか出来ないならそれを唯やれば良い。と言うことになる。
私はSMをする事しか出来ないからSMをしてるわけです、きっと、この命丸ごとSMに投げ込んでいる状態でいつか何かに至る可能性があるのかもしれない、無いのかもしれない。
禅ってそういうものなんだと思う。
やりたいことや、やりがいとか、情熱とか、夢とか、希望とか、そんなもんはさほど重要じゃなくて、自分に出来る事を行い続ける。
それが手っ取り早い。
私は老後のお金の心配をあまりしたことがない。
そんな事を考えている暇が無い。
何せ、我々にとってはM性感に遊びに行くことや、今日これからSMクラブに出勤するためにシャワーを浴びる事の方が今のところ「行える事」なのである。
僧侶ってものを経験してしまうと、そうなるのである。
九拝