昨日の続き

緊縛の集まりの帰り道の無駄話から、有名な武術の世界には、一人の天才が現れたから有名になった武術が多くあるのではないか?というお話を聴いたんですよ。

そこで、私は仏教を思い返した。

天才の存在を知っていて尚、天才では無い私がそれを真似る行為に意味はあるのだろうか?と。

これはね、凡夫にとっての永遠の課題なのです。

仏教も、仏陀という天才、彼に続く修行者達の中から度々出現する天才によって、今の形をとっている。

インドから始まり、中国でも天才が沢山現れて、遠く離れた日本という島国にも度々天才は現れて「禅」を根付かせる事になる。

仏教界には今、私の知る限りドイツ人やアメリカ人の天才も出現していると思う。

天才が多く現れたというのは、天才を惹きつけたり生み出す性質を持っていたからなのですが。

その性質の一つに、阿難尊者という存在が居ると思っている。

如是我聞……(われかくのごとくきく……)

から始まるお経は、阿難尊者が記憶していた説法なのです(と、いう、設定かもしれない)

阿難尊者は釈迦弟子の中で一番悟るのが遅かったと言われています。

ただ、仏陀の説法を一言一句記憶していた人です。

これは、数学者や物理学者の直感に似ています。

説法を暗記するから出てくる悟りです。

なので、記憶力は天才的なんだけど、思考の天才だけが悟れるわけじゃない、という事を網羅しているのが、大きな括りでの天才を生み出す性質の一つかと思う。

そうなってくると、私が武術に対して思う天才じゃないのに模倣する意味にも繋がってくる。

あ、でも、阿難尊者は女性が出家しちゃいけない理由は無いはずだって仏陀を説得して出家を認めさせた、ああ言えばこう言うみたいなロジカルシンキングも出来る人なんだけどね!!

阿難尊者が居なかったら私が「元僧侶」になれる事は無かったのです。

また話が逸れた笑

まあ、そんなわけで、直感と悟りというのは非常に似た物だなと思うわけなんだよね。

SMにもそういう到達点みたいな物はあると思うのだけれど、SMはね、学問の領域まで理論体系化されていない、という面があります。

数学や仏教は理論体系された記録があります。

実は記録の中でSM的な行為は仏教より古かった可能性もあります。でもプライベートな行為なので、様々な情報はあるけど、体系化したり理論化されていません。

また、SMという括りの定義を何処に持っていくか?も難しい。

緊縛だけなら、模倣も出来ますね。

そして、SMマニュアルとか、緊縛の技能本とかのサブカル本もあるので、全書籍を網羅したらある程度の事は自分の中で学問できるかもしれません。

ただ、人間の反応に関してはそれ等だけでは測れないし足りない。

要は、経験か経験と勉強のハイブリッドしか存在しない事になる。

ほんと、天才以外は最低10年の世界になってくるわけだ笑

あーお後がよろしいですこと!!笑

要はあかねさんってすげぇな〜って事ですよ。

あー最近考えてた事を書ききってすっきりした。

以上です!!

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