歴史の長い物に触れて育つと漠然と抱く苦悩がある。
私の矜持として初心忘るべからずがあるのだが、
原点回帰に走るか
未来を目指すか
という極端な所で悩んだことがあるのです。
今のところ、原点から現在までを流れとして良い感じに知った上で現代に甘んじるというのが、私はしっくりとくる。
何で今こんなことやってるの?
何で今こんな考え方を持ってるの?
ってのは、知っておきたいなあと思う。
最近、日本仏教がお葬式をやる理由を知れたので非常にすっきりしました。
誰も興味無いと思うけども、ざっと健忘録として書いておこう。
仏教が中国に入ってきた時に、先祖供養の儒教的な文化の中で、そこから家を出た僧侶の死のやり場として仏教が葬式を始めたと知って、なるほどーーと思ったのでした。
日本では江戸時代に今の檀家制度と葬式が定着しとるらしい。
私は仏教大学には行ってないのでね、凄く知識が足りてないんだけど、知ると楽しいわけです。
知識として持った上で、私は今を生きたい。
紀元前のインドまで辿れてしまう物を目の前に生きている。
すると、伝統というのは伝統として作ろうとするよりも、常に今必要な事を積み重ねた結果、何処かの段階で、守らなければ無くなる時に振り返って伝統として認識される。
SMはいつまでも変化し続けて、生き続けていて、伝統化なんかしないんじゃないかとふと思う。
願望でもある。
勿論、SM的興奮の歴史を辿る事も出来るだろうけどね。
ポンペイのデュオニュソスの秘儀図なんて、なかなか良いですよね。
肉体を痛め付ける事って、神秘的な物事に近づくというのが古代人のイメージなのかもしれない。
そうなると、女王様は神秘の代役を務める存在なのかもしれない。
痛みでアドレナリンやドーパミンやエンドルフィンがドバドバになって興奮するというのが科学教的神秘ですな。
フラットに、様々や価値観を飛び回って楽しみたいものです。
何故、痛みが神秘的な儀式では無く、エロに残ったのかしらね。
セックス自体神秘的だったわけだけどね。
宗教は成熟して禁欲を良しとするターンに入ったけど、随分とまたマゾヒスティックだと思う。
人間って面白い。
SMに出会って、その後の行く先は何だろうか?と思ったりするのだけれど、私は現状に甘んじるタイプということで、深くは考えず、今の自分を積み重ねたいと思うのであります。