エロい尻

うーんエッチだわ……

アナルを犯す為だけの縛り……

お尻がかわいいの。

叩いても良し、蝋燭してもよし……

腰の縄グッチャグチャなんだけど、決めたいところ決めたらこうなっちゃって、私は相変わらず自由よね笑

そんな自由人は、画像とはまるで関係の無い話を始めます。

以下は読まなくて大丈夫です。

まあ、読んでくれたら多少の何かにはなるかもわからん。

最近ね、福祉について考えていたんだ。

ここのところ心理学の勉強をそのうちにちゃんとしてみたいと思っていたんだけど、心理のあるべき形って実際のところ何なんだろうって考えてて、時代によって全く違うと思ったんだ。

あるべき精神状態に「戻す」「治す」「訓練する」には、あるべき精神状態というものが存在しなければならないけど、存在するのは不確かな現段階での定義であって、確かな存在では無い気がした。

医学的に社会的に定義しなければならなくて定義しているに過ぎない架空の概念なのではないかと思った瞬間に、結局の所誰でも生きやすい社会の方が重要なのではないかと思った。

勿論、医学的な治療を否定しているわけではない、必要なもんは必要だ。

私が思索に耽るに当たってという、めちゃくちゃ個人的な話だ。

まあ、結果的に福祉について夢想するに至ったわけなんですよ。

身体障がい者の方が暮らしやすいバリアフリーの街ってのを作るのは物凄い重要な事だと思っているんだ。

建造物のバリアフリー化は勿論、それだけではなくて、お洒落な義肢装具とかね。

カラコン感覚の義眼とか、ハイヒールが履けたり透かし細工がされた美しい義手義足とか、ロボットのOriHimeとか、パワードスーツとか。

そういう事も含めた、楽しくて安全な「物理的」な社会進歩。

知能や心理にもそういうバリアフリーな在り方って多分あると思うんだよね。

きっともう考えてる人が沢山居て、パワハラやセクハラや侮辱や誹謗中傷やいじめが罰則化していったんだと思う。

罰則があるし当然やらない、という認識が極めて大多数になる所までちゃんとたどり着きつつあるでしょうし。

殺人がダメなのだって、宗教や法律を含む現時点での社会的決まりですから。

戦争そのものだって、日本では当然やらない方がいいというのが大多数だったのだ(過去形で書いたのは、まあ、防衛費とかそういう所を考慮したが、基本的には戦争は放棄しているという認識だろうと思う。)

そして、これは本人のソフトじゃなくて、極めてハードに近い方の在り方の話だと思うのです。

私はミストレスなわけだけど、心理的安全性を保つのが上手な女王様は、自分の限界をよく知っていると思うんだ。

ここまで来たら一旦休むとかを、自分自身で判断して実行できる人。

これは自身のソフトウェアの話なのです。

では、ハード、心理的に楽しくて安全な社会ってどんなものなんだろうって考えている。

これには特に具体的に言語化出来る程度に考えついている内容がまだない。

その前段階として、差別意識ってなんぞやについて考えてみた。

社会が当然そのようになっていてる有様を考えるのに良い材料にするために。

私の祖母は度々ここに書いているが、極めて差別意識の強い人だった。

ここで具体的に書くのはかなり憚られる様な言動をしてしまう人で、本当に一緒に外出するのや友達を会わせるのが恥ずかしい人間だった。

その強い差別意識というのは、社会的に持っていたものであり、自身がそうなる事への恐怖でもあったと思う。

彼女の時代は、少女時代に身体的、知能的な理由で戦争に行けなかった人は恥だったろう、祖母の昔話は書きたくない内容もある。

総合すると、公共で説明出来る内容が少なすぎるが、私の印象として、差別するのが社会的に当然である事が物凄く多かったように思う。

そして、其れ等について話すのと同じ様に、お腹を壊すと死ぬ程情けないと思ってるふしがあった。

怪我してもケロッとしているのに、お腹を壊すと物凄く落ち込むのだ。

経験での価値判断が強い人なので、そのへんとっても観察していると面白い。

他者から見て不可解な嫌悪をし始める事には大概経験が伴っている思い込みなんだよね。

お腹を壊してお手洗いから出られなかったのに、それを信じて貰えずに酷く叱責されたことがあるらしいのだ。

要は、この素直な生き物は差別的にならない経験がもし多かったならば、経験主義の人であるし、思想は違ったものになったのではないかと思う。

そして、経験を得る為には知識や知恵の要素も必要だ。

人類って差別無き世界の経験が非常に浅かったり、無かったりするのかもしれないと思った。

未知の領域に試行錯誤しながら踏み込んでいっている。

当たり前の様な世界になる為の、理解や説明の仕方がまだ無いか、広まっていないか。

戦国武将に同性愛が多かったことや、稚児や、陰間茶屋を知識として知っている人にとって、同性愛者が隣に居ることは人間的に当然過ぎて、何とも思わないのだ。

極めて差別的だった祖母ですが、事、同性愛については何の差別意識も無かったのです。

修道の世界だの菊の契りだのという言葉を私に教えたのは紛れもなく祖母であったし、母も兄も知識的に詳しかった。

(当然、大量の差別用語も教えられたわけですが、祖父と母と兄が祖母に対して怒るという環境。)

因みに生物好きの祖父としては、どういうわけだか大好きな昆虫にも雄同士で発情する個体が居たりするという事をそのままの形で知っていた。

人間にあってもおかしくは無いよね。という理解だし、わざわざただの進化で人を傷付けたり排除しようと考える人では無かった。

私は凄い環境で育ったもんだ。

ゲイである私の兄の事を、祖母は怒ることも嫌悪する事も一切無く、狼狽えもせずに修道の人と呼んでいる。

物凄く面白い事だと思うのです。

要するに、知識として持っている事と、それを共通認識として共有出来る環境と実践的な経験があったということなのです。

経験は強い、だけど経験は環境によって全然別の景色になる。

誰しもが友好的な知識と経験と環境に触れる機会を増やすことで、心理的に安全な社会の基盤になるのかもしれないと愚考するわけです。

知識とは、経験とは、環境とは、そんな事をもう少し長期的に考えたい。

考えたいだけで、何かを成したいわけじゃないので、ここに書いた事から誰かの何かが変化する事があれば儲けもんだなと思う。

それは、反発や否定でも勿論構わないのだよ。

私は別に良いでも悪いでも、わざわざ構ったりはしないという事です。

そうそう、祖母も母も当時の感覚ならば比較的高齢出産なので、私の祖母は90歳をちょいちょい過ぎています。

当然インターネットなんて触っていないし、そして、降り注ぐ焼夷弾があんまりに悔しいけど綺麗だった、庭の池に爆弾が落ちて鯉が全滅したと泣ける人です。

認識を改める機会はもう彼女には進言したりしないです。

これ読んじゃった人は当たり前だけど、全員若いですからね。

知識と経験と環境は充分に創り出せる世代なのです。

徒然なるままに書いてしまった……

ここまで読んじゃった人へ。

お疲れ様でした……笑

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