支配

この姿のまま無理矢理浣腸されて、その場で見られながら排泄させられるやつ。

こんなことさ、普段の自分なら絶対に出来ないよね。

恥ずかしい。

威厳もへったくれもない。

「仕事」が好きな人であればあるだけ、魅力的だね。

で、そんな、誰にも見せられない様な姿を私は強要する事が出来る。

それが優位に立つという事の結果だ。

何故それが許されているのかというと、相手の求めるものに対して返答出来るからだろうと思う。

そして、相手の求める物をそもそもから理解出来るからだろうと愚考する。

最近、久しぶりに公のコラムを書いている。

冊子で頒布されるっぽいのでまた詳細は決まったら紹介しますが、

私が書いているテーマはSMと緊縛とコミュニケーションなのだ。

ミストレスという役を撫でるだけなら演技としても出来る。

だけど、プレイをしようと思ったら、五感をフル回転させて無言の相手を解釈し続けなければならない。

自分の想いというのは勿論あるのだが、それを押し通す為の隙を見極めて、絶対に逃げられない様にしなければならない。

そんな事出来ないと言われた時に、君は出来るよ?って私が言えなければならない。

かっけえ財布の話とかさ、それさえもすべての積み重ねであって、それらによる結果の支配でしかないと常々思う。

初日から支配してもらえる支配なんて、まだまだ序の口さ……!!

余談だけど、私が空気の読める人間かどうかを測る事を初回のプレイとした人を何人か知っている。

逆に、私は今後もこのタイミングで解放する、覚えな!という気持ちでプレイをする。

私はわかってるよ、M男さんからも測られている事を。

そんなの当たり前だと思う。

だから、楽しいのよね!コラムも、そんな感じの話をノンブレーキで書こうと思っているのさ。

元気の為に必要

フェティッシュな世界

持参のながながディルドで犯す。

仲良しおてて

書くの遅い!!笑

東所沢の別荘でのプレイです。

緊縛で没頭している時、本当は私なんて要らないのかもしれないと思うんだけど、そんな時に手を握り返されると、私の方が嬉しくなっちゃうのよね。

こういうプレイのフェティッシュさって原始的でいいなぁと思う。

相互的な存在に、どうしても意識が持っていかれる感じ。

たまらないよね。

プレイ。やってます。

わりと好きな拘束。

最近あまりプレイ日記を書いていなかった。

何故なら、他のことに夢中になっていたからである!!

考える事、手を動かす事に夢中になっていると、作文が出来なくなるのである。

面白い物を作ったので、後日紹介したいと思う。

でも、プレイは出来る。やっていた。

顔を固形物にしたり。

唾液と蝋燭で塗り固められる。

口枷付き。

人じゃ無くなる。

プレイ中は人である必要性特にないからね。

人で居ても良いけどね。

何度も会っていると、その人の事をそこそこ知ってくる。

そうなると、その人が物言わぬ何かになるのが楽しい。

私は沢山の事を感じられると思うのである。

授戒

私は縦社会の僧侶経験があるばかりか、母方の家は軍人の家系だったので、家庭そのものが縦社会的だった。

家の中に序列があったし、末の娘というのは今から思えば笑える程序列が低い。(すでにそうじゃない家庭も多かったが)

反動や反発からSMをしている可能性もゼロではないが、正直社会性というのは渦中に居るとストレスでも何でもない。

ただの日常を普通にやっているだけだ。

外と比べると急に……という話しなので、父方に行こうが母方に行こうが序列が低いので別にそんなもんなのだ。

素直なので、学校や友達との社会ではポジション違うなーというだけである。

そして、ミストレスも何やかやと言っても閉鎖的な縦社会だと感じる。

多分、私の世代は特に縦社会とかクソだ!!みたいなゆとり世代なんですけども、でも、それでも同じ学校内でも上の世代は全員縦社会だったので縦社会に慣れているのである。

ふと、梵網経の事を思い返す。

ガチガチにロジカルで抜け目のない戒律、主に菩薩戒を説明する経典。

何でそんな戒律が必要だったのか?

というと、義務教育もインターネットも無かった時代の、学問であり、

悟りを目指す僧侶としての信用を、その他の人から得て、托鉢した時に食べものやお金を恵んでいただいて法(命)を繋ぐため説がある。

パープルムーンにはミストレスが守らなきゃならない規則や、生活規範が幾ばくかある。

それは、パープルムーンがミストレスとして暴力を行使出来る信用をM男さんから得て、食べて命を繋ぐ為の規則と規範なのだろう。

もし、パープルムーンの歴代のミストレス諸先輩方の成果から、ミストレス戒を編纂するなら、私は何を書くだろうね……

何をしてはいけないんだろうね……

そして、何をしなければならないんだろうね……

決して単純な自由では無い。だけど、極めて自由を手に入れる事が出来る。

つまり、戒律作れるのでは?と思うくらい、ロジカルな規則や規範があるわけです。

そして、それは口伝でしかないのですよ。 

でも、記録よりも口伝の方が正確に伝わっている可能性も示唆される昨今、自分用の覚書程度の記録しか作るべきではないだろうね。

と、考えた四連休でした。(書いてるの先週笑)

四連休中、一日に二本連続でシネマ歌舞伎を見たりしていました。

映画の国宝を見たら、見たくなりました。

そしてコテンラジオを聴きながら細々とした家事をやっていたんだけど……

ミストレスも、「本来の」僧侶も、血縁相続では無いんだよなと思いました。

戒律がめちゃくちゃ厳しいのは、出自バラバラの人間を一定水準の「僧侶」に仕上げる為の基準だ。

因みに常に内省し続けなければならない。

総ては自分自身の問題であって、自分の外側の世界の問題では無い。

と、いうことなんだろうなぁーー

反!省!!

こういうのが良い……

シンプルに、こういうのもいいな~って思う。

ツヤツヤしてる!!!!!

良い!!!

良いぞ!!!!

難しい事しなくてもいいよなーって思う事もあるよね。

攻めるとき、ミストレスってこう責める!ということをなぞる必要性はない。

相手の趣味趣向に合わせて責めるのがよろしい。

だけど、相手の趣味趣向をどのくらい理解できるのか、共感出来るのか、という事を常々考えている。

しかも、15分で理解出来るかを。

ここがもしかしたら一番頭フル回転してるかもしれない笑

この人が何をしたら心抉られるかを察知したらもうこっちのもんだ!!!

この人にだけ突き刺さる責めが見つかると最高!!

と思う。

SMは頭がジリジリして辞められない。

マミー

夏だからね。

緊縛じゃないプレイ

ストレッチフィルムしかやってない!!

手術開始!!

↓ちょっとグロいけど、血じゃないです!!!!

無茶苦茶おぞましい感じですが……

蝋燭なんです……笑

グローブが青だとより一層グロテスク……笑

でも、低温蝋燭なんで……

この日は、いかない!いかない!!と呻いててとても可愛かったです。

そして本当に行かなかった笑

本気でいかそうとしてみたんだけど、たまにゃーM男さんに負けるのもありかもと思った。

星の王子様の日

落書きプレイって羞恥心を煽る落書きをするプレイだと思うんだけど、女王様にとっての責めの論理があればそれは立派なプレイで、ぞうを飲み込んだうわばみを描いても良い。(尻にはSUZUKIとSUBARU)
図らずとも今日はサン・テグジュペリの誕生日だそうな。

私は棘があって口煩い赤い薔薇を愛してる王子様が好きなのだ。

落書きというのは染めるといえ趣もある。

私の感性や趣味を押し付けるような、染める様な、一方的に背負わせる様な。

拘束されて、SUZUKIのロゴを描かれるのも、ぞうを飲み込んだうわばみを描かれるのも、M男さん自身の趣味ではない。

(友達に言ったら、残酷過ぎると死ぬほど笑われました。)

M男さんはスバリストだし、ロシア文学が好きだ。

スバリストだと知ってSUZUKIを入れるのは完全な嫌がらせであるし、私が好きなぞうを飲み込んだうわばみで一杯にしたいのも愛だ。

そして、性的な興奮も重要だけど、私は別にちんちんが勃起したりしない支配や、従属も好きだ。

ところで、私と遊んでくれるM男さんは自由人であり、そしてとことん寛容で優しいと思う。

いつも有り難い。

M男さん達凄く好き。

夏だな〜

緊縛希望が少なくなると、夏だなあ〜!!って思う!!

そんな夏のマゾにはWAMだなあ……

水責めとかね〜

あと、なんせマミフィケーションだなあ。

そういや、晒しの拘束なんかも好きでしたね〜

最近やってないけど。

鞭はボディだからいつでも行けるし〜

そういや、今週末は野外羞恥や屈辱系になりそうだね。

どんなプレイが好きか?というのは色々ですが、夏のプレイには夏のプレイの良さがある。

というか、そもそも跡が残せないマゾさんのハードプレイというのがある!!

経験が!ある!

心穏やかな気持ち……!!

はて、さて、文章も書かなければなりませんし、プレイの間に色々やることがありますね。

沢山SMをしたいです。

僧侶仲間との対話

仏教とSMについて話して欲しいと、度々他所様から言われる。

その度に、じゃあまず存在とは何か?というところの擦り合わせに、何シリーズか……まあ、仏教的には死ぬまでその話し続けるんですけどね……端折っても良いんだけど端折るなら経典読んでもらうのがてっとり早くて……

で、そこまで存在についての擦り合わせが出来てるって前提になった先の落ちを言っとくと、ぶっちゃけ何でもどうでもいい。

というたった一言の結論ですけど良いんですか?

となる。

というお話を、変態僧侶と語らう。

佛というのは人を超えたという漢字らしいですよ。

勉強になりますねえ。

「個人的に、イメージ化されている佛様は自己の別人格である「タルパ」が固定化されて出来上がったもの、あるいはタルパの集合体としての存在と思っている。」

とか言われたので、

私は妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈の良さ、その影響力、私にとっていかにそれが大切なお経かという話と、掬い上げる事の出来ない悲しみについて私は朝っぱらから語ってたのに。

今からM性感行ってくるから!またね!!って話をぶった切られたのである。

え?嘘でしょ?M性感行くからで話を終わらせた!まあ私もこれからSMクラブに出勤だけどね!!!!!!!と、いう、「現世を生きる事しかやってない人達」の大変刹那的な対話となった。

話の内容は結構暑苦しかったんだけど、

緊縛を禅行とする事は出来るのか?当然の様にロジック的には出来る、出来るが、縄が無くても良い。

縄であってもいい、縄でしか行ぜない人がいても良いし、別に縄は無くても良い。

坐禅も同じよ。

坐禅でもいい、只管打坐でしか行ぜない人がいても良いし、別に坐禅で無くても良い。

掃除しかできない人が、掃除をし続けて悟りに至る事もある。

これしか出来ないならそれを唯やれば良い。と言うことになる。

私はSMをする事しか出来ないからSMをしてるわけです、きっと、この命丸ごとSMに投げ込んでいる状態でいつか何かに至る可能性があるのかもしれない、無いのかもしれない。

禅ってそういうものなんだと思う。

やりたいことや、やりがいとか、情熱とか、夢とか、希望とか、そんなもんはさほど重要じゃなくて、自分に出来る事を行い続ける。

それが手っ取り早い。

私は老後のお金の心配をあまりしたことがない。

そんな事を考えている暇が無い。

何せ、我々にとってはM性感に遊びに行くことや、今日これからSMクラブに出勤するためにシャワーを浴びる事の方が今のところ「行える事」なのである。

僧侶ってものを経験してしまうと、そうなるのである。

九拝