あいむそーりー

面白かったからプレイの事より先に文字を書いてしまおう。

メリケンに住んでいたことのある初めましてのM男さんに、あいむそーりーって非を認めて謝罪する事と、お気の毒に……って感じと、使うよね、面白いと思ったんだよねって無駄話を致しまして。

I’m sorryの使い分けるのを実演してくれた。

とてもとても『表現』なんだと思った。

そして、口を使った言葉と違って、文章というのは想像力と状況把握能力と文脈の読解が必要なんだなあと実感した。

読むというのは高度な事をやっているなと。

(そやって考えると、私に会いに来てくれる人は高度な脳の使い方を強いられているのだ笑)

むかーーし、若かりし頃にとある人が、職業によって使う言語が違うんだって言ってたんだけども、

根本的な言語の違いはとても顕著でわかりやすいというだけで、実は隣人とも違う言語を使っている。

『この世は次の瞬間には無くなって再構築されるという事を繰り返しているかもしれない。』

という雰囲気を表現するとき、

私は一切刹那滅的な感じと言うし、

バートランド・ラッセルは、世界五分前仮説と言うのだろうと思う。

(余談でありますが、世界五分前仮説について、私はずっと空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の教義だと思いこんでて、スパゲッティモンスター教一切五分前説と検索すると、私の恥ずかしい2018年の日記が出てくる。この場にて、ファクトチェックという概念を知らず疎かにしていた過去の私の愚かなる所業を謹んで謝罪申し上げる。)

これは、翻訳が入っているけど、漢字で同じ様な概念を伝えるのに、バックグラウンドの違いが出てきた例なんだよね。

結局のところ、宗教や国や民族や、コミュニケーションというのは相手が何を経験してきたか?ということを知る所から始まるきがするのだよ。

人間って本能的に、何かを交換したいのではないか?という考え方があるらしい。

細菌や化学物質レベルで接触する事も交換と言えるんだけど。

まあ、詳しく知りたい人は勉強してみてくれ。

喋るということは、大雑把に情報の交換なんだよね。

恋愛にしろ、SMにしろ、家族にしろ、友達にしろ、常に交換しているんだ。

誰かにわかってほしいと思ったら、伝えるだけじゃなくて受け取らなきゃいけない。

受け取ったら差し出さなきゃいけない。

そうでなかったら『楽しく』ないんだよね。

本能的にやりたいのだから、それは快感なんだと思う。

常に差し出して、受け取って行かなきゃ、ストレスが溜まるかもしれない。

労力を割いて、お金も称賛も無かったら、孤独だもの。

まあ、罵声を貰うこともあろうが……

なんてえ、事を、帰路に考えていました。

今日も脳トレしたね!

ただただこの日記を読むという高度な知能活動したね!

読んでくれてありがとう。

そして、私に考え事をするネタを提供してくれてありがとう。

凄く良いものを貰った。

プレイは帰って思い出しオナニーするまでがプレイ!

だと思うんだけど、私は帰って考え事をするまでがプレイです。

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